いじめに関して、
2種類に分けることができます。
いじめている側の人間がいます。
いじめられてきた側の人間がいます。
大多数の自覚の有無にかかわらず、
世間の人間は、いじめている側の人間が数として、圧倒的に多いです。
世間の人間は、いじめられてきた側の人間は数として、相対的に少ないです。
ましてや、僕のように幼少期から、いじめられ癖が付いて、慢性的に、いじめられ要員になってきた人間は僕以外に、どれだけいるでしょうか?
いじめられてきた人間は、
世間の膿を背負っている。
その膿は、息苦しいモノ。
重苦しいモノ。
膿を押し付けられて、断ることもできぬまま、
降ろすこともできず、処分もできず、
大多数が見ないことにして、誰かに押し付けた膿。
いじめている多くの人間は、
世間の罪を背負っている。
本来なら罪とは、裁かれるものだが、
罪を償え。とは言わない。
罪を償わせようとしたら、
世間の大多数の人間を処分しても飽きたらぬ。
いじめられてきた人間の見てきた世界を、
いじめている人間は、共感できない。
いじめられてきた人間は、
自身を保つため、隣の人に共感してもらえないと分かった上で、それでも自身を保つために、
声や音を発しています。
いじめている人間から見える、
異質な壁の向こうから。
いじめている人間から見て、
そんなことあるわけない。と思える話が、
いじめられてきた人間には、
現実に実際に起きています。
聞いてあげて。
それを聞かされる人間からすると、
まして自覚有る、いじめている人間からすると、
耳の痛い話かもしれない。
再び恐怖を感じるような、
意味不明な声や音かもしれない。
聞く気になれないかもしれない。
でも、聞いてあげて。
もしかしたら、その声は、口から発する声としての音では、ないかもしれない。
音がないのに、どうやって聞くの? とか思わないで。
聞いてあげて。
もしかしたら、勇気を持って、それはとても小さい声かもしれないけど、発することができるかもしれない。
聞いてあげて。
もしも、それすら聞けぬと言うのなら